グローバル企業への道:1892年-1918年

最初の無線信号が大西洋を越えて送信され、鉄道が商業用から戦時用に発達していた頃、今日のGSKの礎を築いた会社は、世界中に事業を拡大し、さらにグローバル化を進めて新製品を開発・販売していました。

英国ケントのブロックウェル・パークにあるウエルカム生理学研究所、1910年代頃

 

Beecham’s Pillsの製造

1880年代にBeecham’s Pillsの需要が増大したため、ビーチャムの工場は、新しいより優れた製造機械とともに拡張されました。

1900年には、Beecham’s Pillsの製造量は1日あたり100万錠に達しました。世界中の新聞に現地の言葉で広告を掲載することにより、世界中の消費者がビーチャムを知るようになりました。

近代的な医薬品研究のパイオニア

1894年、生物学的実験、特にワクチンの初期形態の研究に特化したウエルカム生理学研究所が設立されました。その後10年の間に、熱帯病を研究するための熱帯研究所がスーダンに創設され、病理学研究設備を備えた移動式の水上研究所が白ナイル川に設置されました。これらの研究施設は、今日の私たちの研究開発活動の礎となりました。

1910年代には、バローズ・ウエルカムの知名度は、世界中で高まっていました。ニューヨークに設立されたその子会社は、最大規模かつ最高収益を誇る国際企業でした。

 

1894年

年間600万箱以上のBeecham’s Pillsを販売

1894年

英国ケントにウエルカム生理学研究所を設立

1906年

バローズ・ウエルカム・アンド・カンパニー(米国)をニューヨークに設立

 

Defiance乾燥ミルク工場、ニュージーランドのバニーソープ、1904年頃

「グラクソ」の起源

ニュージーランドにあるジョセフ・ネイサン・アンド・カンパニーの酪農場は、凍結乾燥粉ミルクを販売していました。この粉ミルクは、1904年まで、Defianceという製品名で製造されていましたが、1906年にLactoという製品名に変更しようとしました。しかし、Lactoは商標局によって却下されたため、Glaxo(グラクソ)という製品名に決定しました。Glaxo(グラクソ)は1906年後半に商標登録されました。

1908年、「グラクソは元気な赤ちゃんを育てます」というキャッチフレーズの広告キャンペーンが開始されました。乾燥ミルク「グラクソ」は、低温殺菌されていない生乳よりも安全であるとみなされ、乳幼児および小児用食品として人気を博しました。

1947年、ジョセフ・ネイサン・アンド・カンパニーは、その子会社であるグラクソ・ラボラトリーズ・リミテッドによって買収されました。

 

Horlicks工場の航空写真、英国のスラウ、1910年頃

国境を越えて拡充

1905年、Horlicks を欧州と大英帝国に輸出するために、新しいHorlicks製造工場の建設が英国で始まりました。この工場は1908年までには操業を開始し、その後100年以上にわたってHorlicksを製造しました。

1910年、ジョン・ディビット・スティーフェルの孫息子オーガストが、彼の家族の石けんを米国で販売し始めました。そして、会社をスティーフェル・メディシナル・ソープ・カンパニーとして米国で登録しました。この時期、同社は、世界中の国々で100種類以上ものさまざまな製品を販売しました。

 

1906年

ジョセフ・ネイサン・アンド・カンパニーが、同社の乾燥ミルク製品に対してGlaxo(グラクソ)という製品名を商標登録

1908年

Horlicks製造工場が英国スラウにて操業を開始

1910年

スティーフェル・メディシナル・ソープ・カンパニーが米国で登録される

 

エベレスト遠征隊で、TabloidブランドのRytolを用いて写真を現像しているジョン・ノエル、1922年

 

世界を探検する人たちをサポート

今日のGSKの礎を築いた会社は、20世紀初頭のに活発になった探検や遠征をサポートしました。応急処置用品と医薬品が入っているバローズ・ウエルカム・アンド・カンパニーのTabloid救急箱は、最初の大西洋横断飛行、さらに、アマゾンや南極圏、エベレストへの遠征にも携行されました。

第一次世界大戦時には、Horlicksは成人の消費者の間に普及しており、兵士や探検家の配給物として使用されていました。有名な探検家リチャード・バード提督は、南極でHorlicksを飲んだあと、南極にある山脈をホーリック山脈と命名したほどです。